これまで「やはたクロニクル」に
アップした地図データをまとめました。
明治初期から明治20年頃、30年頃、
そして八幡大空襲の被災地図まで
八幡の町の変遷が一目でわかります。
今後も、少しずつ追加していく予定。
そのうちスペワがあったことも、
歴史の一コマになるのでしょうね。
これまで「やはたクロニクル」に
アップした地図データをまとめました。
明治初期から明治20年頃、30年頃、
そして八幡大空襲の被災地図まで
八幡の町の変遷が一目でわかります。
今後も、少しずつ追加していく予定。
そのうちスペワがあったことも、
歴史の一コマになるのでしょうね。
今日は「やはたクロニクル」の資料として
1896(明治29)年の八幡村の地図を作りました。
鉄道は、旧大蔵線が開通していましたが、
八幡村にはまだ駅(停車場)がなく、最初の駅は
「大蔵駅」で1898(明治31)年のことでした。
この明治29年は、ちょうど製鉄所の誘致活動と
政府による建設用地の買収工作が行なわれた年で、
枝光の約8万坪、尾倉の約11万5千坪、
合計約20万坪が国に収容されました。
(うち2万坪は、国への無料献納)
20万坪は、東京ドーム14個分くらいです。
当初、政府の創立予算案における土地購入費は
10万坪で30万円の予定でしたが、
実際は、面積が2倍に増やされたにも関わらず、
約20万坪で9万円という信じられない低価格でした。
買収に反対する尾倉の農民が立てこもった
「元照寺(がんしょうじ)」(※当時は現在の位置とは
異なっていて春の町5丁目付近だったらしい)と、
枝光の農民が集まった「枝光八幡宮」も
地図に落しました。
このあたりの事情は、当時の八幡村長・芳賀種義が
「製鐵所設置請願運動の大要」に記しています。
(→ 「八幡村村長の悪戦苦闘」)
この後も用地は、1901(明治34)年の操業時までに
官舎用地や貯水池用地などが追加買収され、
開業時の敷地面積は、約26万坪となりました。
製鉄所が設立される直前の1896(明治29)年の
八幡村の戸数はわずか379戸、人口1326人。
その5年後、製鉄所が創業した1901(明治34)年には
戸数1750戸、人口6652と約5倍に急増しました。
ちなみに、2018年10月現在の八幡東区の
人口が65,944人なので、製鉄創業当時の
八幡の人口は、現在の約10分の1です。