「夜露死苦」 1980年前後、ツッパリ系の若者の間で流行った当て字の落書き。
滝川クリステル風に読めば、「よ・ろ・し・く」。
いったい誰に向かってアピールしているのかは不明。
言うまでもなく、落書きは犯罪です。
ぜんぜんよろしくありません。
坂まちそだちの、こどもたち。
かつて大宮町の高台にあった「枝光北公民館」の跡地です。
地域の文化祭や成人祭などの折、
たくさんの笑顔がこの階段を行き来しました。
夏草や老若男女が夢の跡
これが、ありし日の枝光北公民館。
私が小学校だった1970年代には、公民館の門扉付近に
トーテムポールが立っていたのですが、
ここには写ってないので、開館まもない頃の写真だと思われます。
今回のまち歩きの企画は、1964(昭和39)年に
枝光北公民館(現在の枝光北市民センター)ができて
50周年の記念行事の一つとして実施されたものでした。
今回ちょうど50年の節目に、枝光のなつかしい道を上り下りし、
あたらめて地域を見つめるいい機会となりました。
こちらは荒手1丁目。かつて高田工業所の寮が建っていたあたり。
向こうに見えるのはグッデイの駐車場。
汗をかいて坂道を上りきれば、パーッと視界が開けます。
坂のまちの住人は、しんどい思いをした後の解放感、達成感を
子どものころから身体で覚えています。
山登りでは「下り」の方が難しいなんていいますね。
急な階段は、上からみると目がくらみそうですが、
坂のまちの子どもたちは慣れたもので、
長い階段をトントンと軽やかに駆け下りていきます。
以上、路上観察@枝光
「Part2:坂と階段のまち編」でした。
【オマケ】
路上観察ブームの火付け役であった作家、赤瀬川原平さんは、
坂のある町の魅力について、こんなふうに語っています。
(以下引用)
…二、三歳のころなので断片しか覚えてないが、崖があり、石段があり、上の方に家があり、下の方にも家がある。そういう空間の、何かわくわくするような楽しさをはっきり覚えている。
…そうか、港町の切り立った崖沿いの家並、それが子供のわくわくする楽しみなんだなとそのときわかった。それはたまたま私の子供時代の体験だけど、本当はどの子供もそうだと思う。
坂のある町には、何か楽しい秘密が隠れているのだ。
…坂道を上がり、下り、曲がり、歩くたびに景色が変って、あまりにも楽しい。
…住んでいる人はたぶん大変だろう。買物のたびに、何かのたびに、急な坂道を上がり、上がったら必ず下りる。大変である。でも大変だから、坂道にその苦労がにじみ出ていて感動する。
…思いがけない地面に下の家の軒先が出ていたり、塀の形が意外な造形を作り出していたり、角を曲がるたびにハッとする。生活のために少しずつ改良した工作に、努力がにじみ出ている。それがどこも味わいがある。
…もう一つ、そもそも崖地の楽しさは、空間だ。
道は狭くて石段は急だけど、どこも見晴らしがいい。だから狭苦しいところについどこからか忍び込んでくる惨めさや鬱陶しさが、あらかじめ吹き飛ばされている。
海に面した崖地だから物理的にも風が強いが、それが人々の内面にも吹き込んでクリアーにする。だからとても楽しい。『仙人の桜、俗人の桜』
※赤瀬川原平さんについて、くわしくは、
Yaha-lab.の「よりぬき文庫」へ。
ひえぇぇ。枝光の“かいだん”
この坂道は、(パート1:近代化の遺産編)で紹介した
「宮田山トンネル」の上にある“望玄坂(ぼうげんざか)”。
“玄界灘を望む”という意味で名づけられたようですが、
見えるのは、沿岸部に工場が建ち並ぶ洞海湾(どうかいわん)です。
右側の家の入口にも、専用の階段がついています。
拡大してみましょう。
傾斜地に建つ住宅の多くは、外路面と床面に高低差が生じるため、立地条件ごとに異なる“オンリーワン”の階段が必要になります。
そのため枝光のような坂のまちでは、個性豊かな階段と出会えます。
こうなるともう、階段というよりほとんどハシゴ状態。
勝手口だと思われますが、家の2階の床の高さが、こちらの道路側ではドアの位置になるのでしょう 。
右側の黄色い標識には「行き止り」の文字が見えます。
こちらは崖地の住宅に寄りそうように、細い階段が続いています。(荒手1丁目)
このように枝光地区の多くの階段は狭く、密集した住宅の間を縫っています。通り抜けできない道も多く、足を踏み入れたら、知らない家の玄関先で立ち往生することも。
この街全体が、巨大迷路のアトラクションのようです。
(すいません。誇大表現でした)
こちらの階段を下りると樹海ならぬ、夏草の海。
迷い込んだら、二度と生きて戻れません。
嘘です。そうなると怪談です。
小学生はそんなダジャレをものともせず、長い階段をせっせと元気に上っていきます。こんな坂を毎日上り下りすれば、いいトレーニングになるでしょうが、
われわれ、大人には、手すりが、欠かせません。ふう。
こんなふうにブロックを置いて、段差を小さくした階段もありました。高齢者の多い地域ならではの、やさしい心づかいです。
猫が散歩するブロック塀のかわら屋根も、
ひとつずつていねいに階段状。
小学生がつけたタイトルは「かいだん花だん」。
だん、だんと、上手に韻を踏んでます。
(つづく)
トンネルもと暗し?
枝光地区の、もう一つの産業遺産は「くろがね線」です。
かつては、鉱滓線(こうさいせん)とか、
炭滓線(たんさいせん)とも呼ばれた
八幡製鐵所の専用鉄道です。
1930(昭和5)年に完成し、八幡と戸畑の工場が
「宮田山トンネル」で結ばれました。
地元の人はトンネルがあることは知っていても、
その名前まで知る人は、意外と少ないようです。
(実は私も知りませんでした。)
「灯台もと暗し」ならぬ、「トンネルもと暗し」!
下の写真は、1928(昭和3)年頃のトンネル工事の様子。
戦中戦後の一時期には、製鐵所の通勤列車としても
利用されていたそうです。
今では「くろがね線」のトンネルも鉄橋も、
枝光ジモティには、見慣れた風景の一つですが、
時折、鉄道マニアの“とり鉄”の方々が
貨物列車を撮影している光景を見かけます。
こちらは、山側(枝光3丁目)から見下ろした鉄橋の姿。
で、こちらは枝光駅前の県道にかかる歩道橋の上から撮影したもの。
下は、1930(昭和5)年、完成当時の「くろがね線」の鉄橋。
鉄橋の下を歩いてみると、今もこんな感じで
当時の橋脚がしっかり踏ん張っています。
100歳を越える工場。(現役!)
枝光地区にある近代産業化の遺産といえば、
1912(大正元)年に建てられた安田工業の工場が、
枝光2丁目にいまも残っています。
門の外から、約100年前の工場をパチリ!
安田工業は、日本で初めて鉄製の洋釘をつくった会社で、
この工場の設計者は、辰野金吾(たつのきんご)。
東京駅や日本銀行を設計した日本を代表する建築家です。
隣りの戸畑区にある「旧松本邸」の洋館
(こちらも近代化遺産の一つ)も辰野氏の設計だとか。
では、工場の裏手に回って、パチリ!
複雑な屋根のラインが面白いですね。
ちなみにこの安田の工場は、前回紹介した
「鉱滓煉瓦(こうさいれんが)」で造られている
最大級の施設なんだそうです。
屋根の向こうには、山の上まで住宅が密集する
枝光らしい光景が写っています。
(つづく)
「向こうのレンガの塀がね…」「へぇ。」
かつて八幡製鐵所の本事務所だった跡地には、
いま、北九州八幡ロイヤルホテルが建っています。
前回の写真を拡大すると、ブライダルフェアの看板と
結婚式用の教会の塔が写っていますね。
さらにホテルの方へ歩くと、長い階段がありました。
この一歩一歩は、
天にも昇るような幸福な結婚を予祝しているのか?
あるいは、
結婚後の苦難の道のりを暗示しているのか?笑
そう、枝光地区は、坂や階段の多いまちでもあります。
→(パート2『坂と階段のまち編」へ)
階段を上っていくと、こんな案内板が。 「えー、まだ続くの?」と思っても人生はひき返せません。笑
上りきってホテルの敷地を裏手に回ると、 本事務所時代のレンガ塀を発見。 2代目の本事務所ができたのが1922(大正11)年だそうで、もしかすると、大正期のものかも知れません。 ネットで調べてみると、本事務所の建物には 「鉱滓煉瓦(こうさいれんが)」が使われていたそうです。
「鉱滓」とは、鉄をつくるときに生じる不純物で、 これらをレンガの素材としてリサイクルしたものが 鉱滓煉瓦だとか。
ここのレンガ塀も、きっとそうだと思います。(たぶん)
では引き続き、枝光にある有名な(?)
近代化の産業遺産をめぐってみましょう。 (つづく)
天国への階段。
洞海湾(どうかいわん)を望む坂のまち、枝光。
いちばん低い所をJR鹿児島本線と県道が走り、
山の斜面に沿って頂上まで住宅が密集しています。
まるで段々畑のようです。(宮田町)
明治期の製鐵所の操業以来、各地から
仕事を求めて八幡に集まってきた人たちのために、
山を切り拓いて上へ、上へと家を建てた結果です。
詩人の北原白秋が八幡を訪れたときにつくった
『八幡小唄』にはこんな一節があります。
「山へ山へと八幡はのぼる
はがねつむように家がたつ」
枝光地区のいちばん高いところにある大宮町から
洞海湾を見下ろすと、こんな眺望です。
一部を拡大してみましょう。
キリンのようなガントリークレーンと貨物船が見えますね。
こちらは枝光駅前商店街から上がっていく“百段階段”。
見上げると「わお!」と思わず声が出てしまいます。
高齢者にとってはキビしい環境です。
よく見ると右側の建物のわきにも、細くて急な階段がついています。
どこまで上がれば天国にたどりつけるのでしょうか。笑
(つづく)
鉱炉とシャトルの見える街
枝光のまちの歴史は、教科書にも載っている
近代化の産業遺産「八幡製鐵所」とともにありました。
下の写真は、枝光の坂の上からその発祥の地である
東田方面を撮ったものです。
その昔、八幡製鐵所の構内だった場所には
「スペースワールド」のアトラクションが並び、
中央に建つスペースシャトルの右奥には、
1901(明治34)年に操業を開始した
「東田第一高炉跡」が写っています。
かつて地元を離れ、数年ぶりに帰省したときに
スペースシャトルがどどーんと建ってるのを見て
とてもびっくりしました。
リリー・フランキーさんの小説、
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の
一節にはこう書かれています。
もう、現在の小倉の街には路面電車の姿はない。あの大きかった製鉄所も立ち並ぶ煙突もない。そして、その跡地にはテーマパークが造られ、なんの冗談かアメリカの宇宙ロケットが展示してあるらしい。(p11)
枝光は、その“冗談のような”スペースシャトルと
溶鉱炉のモニュメントの隣にある町で、
かつては八幡製鐵所の本事務所が置かれていました。
その跡地がちょうど「枝光1丁目1番」にあたります。
昔の製鐵所の本事務所(2代目)は、
長さ100m以上の堂々たる建物でした。
写真手前に写っているのは1985(昭和60年)に
廃止された西鉄の路面電車です。
懐かしい!
2013年の夏、かつて電車が走っていた同じ場所を
路上観察しながら、子どもたちと歩きました。
「昔はね、ここに電車が通っとったんよ」
「ふーん・・・」
(つづく)